「月2回1回6時間」、これは、私が長女と過ごせる時間。私と長女は、月2回だけの母娘なのだ。
では、どうして「月2回だけの母娘」となってしまったのか…
忘れもしない、3年前の1月14日。コロナ真っ只中のある日だった。
この日がXデーとなった。
結婚してから、連れ去られるまでの間、私は、夫が長女を連れ去ろうと計画しているなんて1ミリも思わず、コロナで職が無くなった夫の分まで、家計をやりくりしようと生活費は全て私が負担し、馬車馬のように働いてきた。
一回り以上年上の夫と結婚してから6年間、夫から生活費を貰ったことは1回も無かった。
そんな生活は私にとってはかなりのストレスだった。
夫婦喧嘩は絶えず、ある日私から「別居したい」と申し出た。夫は、「3人でいなきゃダメだ、〇〇(長女)に片親なんてさせられない。可哀想すぎる。」と反対した。
しかし、そんな言葉とは裏腹に夫は、その次の日、長女を連れ去り、長女と共に私の前から忽然と消えてしまったのだ。
このX デーが、私の人生のターニングポイントであり、「月2回のだけの母娘」の始まりであった。
その10日後には監護者指定の審判を裁判所に申し立てた。しかし、これが良く無かった。この連れ去りの世界の事を何も知らずに、焦りとまともな精神状態ではない中、某有名弁護士事務所の所謂、「連れ去り弁護士」と契約をしてしまったのだ。経験の浅いその弁護士は「こっちは母親なので母性優勢の原則でこっちが有利ですからどんどん攻めていきましょう」というスタンスだった。相手がどんなに親として相応しくないかを徹底的に非難するような書面を作成されてしまったのだ。勿論、夫の目にも留まるわけで、激昂した夫も負けずと、私がどんなに母親として相応しくないかを徹底的に主張してきた。
これを「泥試合」というのを後で知ったが、主張書面は、当に「泥試合」、建設的なことは何一つ書かれず、長女の気持ちすら二の次となり、夫婦喧嘩の場となった。
その中で最も人間不信に陥ったのは、夫が、連れ去る2年も前から私との日常を録音していたことだ。それを主張書面の根拠として裁判所に提出してきたのだ。
連れ去られる前の2年間、当時、コロナ禍で看護師として働いていた私の職場は戦場のように忙しく、毎日誰かがコロナ陽性か濃厚接触者で休み、役職が付いていた私は、それをカバーし、やってもやっても仕事が終わらず、時短勤務し始めた私の勤務時間は常勤と変わらないほどであり、毎日残業でヘトヘトになっていた。
疲れきった私に夫は、嫌がらせの言葉を投げかけ、私を激昂させ、それを録音していたのだ。
戦場という名の仕事を終、家に帰ると大量の家事が待っていた。夫は私が作り置いた食事を長女に食べさせ、お風呂に入れることしかせず、帰ってきた私に大量の家事と長女を押し付け、自室へ篭った。おそらく、この時、虚偽DV、虚偽虐待の証拠作りに勤しんでいたのだろう。
録音を聴くと可笑しな点がいくつもあった。
虐待を主張した録音の中に、私が長女を注意し泣いている長女を夫が別の部屋に連れていった場面のものがあった。私は直ぐにあの時のだと思い出した。しかし、長女を連れて行った後のことは知らなかったので、その続きを聞いて耳を疑った。
夫は、言語がままならない長女に向かって、「ママに痛い痛いされたの?ここだね、ここ痛いの?あー、赤くなってるね。困ったねぇ。」と囁いていたのだ。長女は「ママね、、、ここ、、、」しか答えられず、なんと、私が長女に暴力を振るい長女の身体の一部が赤あざになったように印象操作している録音だったのだ。
また別の録音には、大量の家事をこなしながら、ちょっとした夫婦喧嘩となった日のものがあった。夫婦喧嘩をしながら、包丁を洗っている私に向かって夫は、「その手に持っているのは何?」と聞いてきたのだ。私が「包丁」と答えると「その包丁で僕を殺す気か?」と言われた時の録音だった。なぜかその時無性に悲しくなり、包丁を手にし、泣いた事を良く覚えている。その啜り泣く私の声までも、綺麗に録音されていた。
夫婦喧嘩はDV、私が長女を叱る場面は虐待へと、夫が作成したシナリオ通りに録音されたものだった。
夫は、自分の私利私欲の為なら人を陥れてまで手にしようとする人だという事が、夫の作った録音から鮮明にわかり、それが、はっきりと私の脳裏にインプットされた瞬間でもあった。
連れ去りを知ってから、夫の言動で、一つ腑に落ちたことがあった。それは、日頃から、育児は私に任せたがっていた夫が、ある時急に「僕が子供の世話をするから、好きに仕事をしたらいいよ」と言い出した事があったのだ。それもちょうどこの録音された時期と重なっていた。当時は、「偶には気遣ってくれるんだ」と嬉しい気持ちになった事を覚えているが、実はこれは私を気遣う言葉ではなかった。
監護者を指定する際には、どちらの親が子供と多く関わっていたかが、監護の継続性の原則に有利だという事も知った。あの時も夫は自分が監護者に有利になるように、自分が私より多く長女と関わり持つ事を考えて、私に仕事をするように仕向ける言葉だったのだ。
夫の狙いは全て「自分が長女の監護者=親権者」となることであった。
「母親側が有利」という弁護士の「母性優勢の原則」の考えは古く、昨今は、共働きの家庭が増え、裁判所は、「監護の継続性」を重要視するようになっていたのだった。
つまり、連れ去って子供と一緒に長く暮らしている既成事実を作った親が勝ち、その後、監護者(=親権者)となるように始めから決まっていたのだ。
これは、所謂「連れ去り勝ち」と呼ばれている。連れ去られた時点で男女差もなく、勝敗は決まっていた。
そんな事も知らずに、私は、長女は必ず私の元に帰ってくるという期待を胸に、戦場のような職場から帰宅し、3LDKの家で1人寂しく、毎日毎日、裁判所に提出するため、陳述書を何枚も作成していた。
そんな事とは裏腹に、裁判所は、夫の匠な計画の一部となり、そのシナリオ通り、「夫が長女の監護者として相応しい」という調査報告書を作成したのだ。それが、連れ去りから3ヶ月が経過した頃だった。
その調査報告書を読んだその翌日から私は、生きる気力を失った。
「今まで私がしてきたことはなんだったのだろう。」と、答えもない質問を自分に投げかけ途方にくれた。
ただただ、悔しくて悔しくて涙が止まらなくなってしまったのだ。もちろん、仕事には行けなかった。
「私の人生は終わった、もうあの子には会えないんだ。」とどん底に突き落とされた。その瞬間、全てが本当に、どうでも良くなった。もちろん仕事も、人生もどうでも良くなってしまったのだ。仕事にも行けず、毎日毎日、朝起きては泣き、涙が止まらず、廃人のように生活していた。
見るにみかねて母親が遠く離れた田舎町から犬2匹を車に乗せて、片道6時間かけて会いに来てくれた事もあった。そんな、母親には心底感謝している。
調査報告書を読み、直ぐに監護者指定の申立てを取り下げた。連れ去り弁護士を解任させ、面会交流調停を申立てた。
直ぐに、夫から監護者指定を申立てられ、監護者は夫と正式に決まった。
それと同時期、Xデーから丁度10ヶ月後に、「月2回1回6時間」という面会交流条項もできてしまい、「月2回だけの母娘」が始まったのだ。
